誰かの幸福


月の光が差す衛宮邸の庭。
静かな佇まいを見せるこの庭は太陽の下よりも
月光の下のほうが映える。
「あいかわらず素晴らしい庭だな、衛宮」
一成は月に照らされた草花を見てほう、と息を吐く。
「親父が大事にしてたのを枯らさないようにしているだけなんだけどな」
「否、愛されていなければここまで美しく映えることもあるまいて。
たいしたものだ、この庭は」
そういうと一成は南西の空を見上げる。
そこにあった御山……柳洞寺の山はもう、この場所から見えることはない。
「うちの境内にも素晴らしい庭と池があったのだがな……。
あれが失われてしまったのは至極残念だ」
「「う」」
同時にギクリとする士郎と凛。


柳洞寺は冬木市南西に位置する山の上にある寺社である。
だが、その土台となっていた山はもうない。
聖杯戦争後、大規模な地盤沈下によって
柳洞寺は壊滅的な打撃を受けた。
その理由は他でもない、
柳洞寺地下で行われた聖杯戦争最後の戦い、その余波である。
直接的な要因はいくつかあるだろうが、
その殆ど全てに二人がからんでいる事は明確である。
壊そうと思って壊したわけではないのだが、
後ろめたい気持ちがあることも事実であった。


「あー、お寺軒並み壊れちゃったもんねぇ……大変だっただろ、アレ」
「ああ。怪我人が少なかったのは不幸中の幸いだが
あの時は流石に死を覚悟したぞ」
そういって感慨深げに目を閉じる一成。
対して士郎と凛は冷や汗だらだらである。
「あー………その、一成?」
「む?どうした衛宮」
「なんつーか……すまん」
「あー………あの、なにかあったら力になるから言ってね?」
「それには及ばん。人為ならまだしも天災ならば仏の課した試練よ。
今はもう新しい寺も立ち、復興の目処も立っておる。
檀家様方にも力になってもらえたしな」
かんらかんらと笑う一成の顔はとても晴れやかである。
「…………………」
間違いなく人為ゆえに絶句する二人。

「しかし………」
「か、金ならないわよ?」
「ん?何のことだ?
………いや、な。
幸福であるな……そう思ってな」
しみじみと語る一成。
「………大丈夫?柳洞君」
「……なにがだ。
……確かに不幸はあった。苦境もあった。
だが。不幸も苦境も今へと続く道だ。
それなくしては今はありえないだろう。
衛宮と出会い、共に日々を過ごし、時に助け合い過ごした。
いまや一生をかけて付き合える友人であると、俺は思う。
そして、そんな友人の幸せをこうして喜ぶことが出来る。
これほどの幸せがあるのか?」
「…………む」
「くくく………。
ああ、確かに幸せかもね」
美綴は絶句してしまった遠坂をみて笑う。
「一成………」
「………衛宮。
出会った時から、お前は誰かが苦しんでいれば
その人間の為に全力を尽くした。
お前にはたくさん助けられた。それをとてもありがたいと感じていた。

………だが。そんな中……。
間桐慎二だけは、そんなお前の事を馬鹿だ、と評していたな」
「……………」


間桐慎二。
今は亡き、士郎の心からの友人。
誰よりも自分を愛する利己主義者。だがそれ故に彼は真っ直ぐであった。
己の感じたままに誰かを評するそのあり方は、
彼とは決定的に相容れない、
士郎にとって最も歪んだその一面を突いていた。
それは………。


「奴には今でも……共感は出来んが、お前の事をよく知っていた。
それだけは判る。
衛宮、あの頃の事をお前は詳しく話してはくれないが……
誰かの為に。傷ついていたのだろう?」
あの頃。――――行方不明だった頃。
「己の事を顧みない。その様を間桐は”馬鹿だ”と評した。
お前がいなくなった時………俺はその意味がわかったよ。
衛宮は自分の幸せに対して……あまりに無頓着だった」
「………………」「………………」
士郎と凛は黙り込む。


それは紛れも無く衛宮士郎の一面だった。そう、慎二が指摘した歪み。
衛宮士郎は間桐桜の為に命を懸けた。全てを捨てて。
けれどそれは………。


「だが。
………今はもう、そうは思わんよ、衛宮。

―――お前は帰ってきた。
当時の遠坂や、間桐さんの様子を見ていれば
お前がどれだけ深刻な状況にあったのか………わかる。
帰ってこないのか……そう推測も立てたが……。
それでもお前は帰ってきた。

そして………今、俺をこんなにも幸福にしてくれている」
そう言って一成は………笑う。
「衛宮、友人というものはな。
お前が誰かに笑っていて欲しい、そう願うのと同じように……。
幸福でいて欲しい、そう願うものなんだ。
だから、間桐さんとお前が結婚する……明日という日は。
……俺にとって、とてもとても、幸福な日なんだ」
「…………ふふ」
「………まったく………」
美綴も遠坂も照れたように笑う。
それは紛れも無く……同じ気持ち故に。
「………改めて。おめでとう、衛宮。
友人のお前が幸せになることを、俺はとても幸福に思う」
そう言って手を差し出してくる一成。
士郎はその手を強く握り返す。
「………ああ。ありがとう、一成」


士郎の中に……今までなかった思いが溢れるのを感じた。
今こうして自分が幸せであることが、他の誰かを幸せに出来ること。
それは………今までの彼の生き方にはなかったものだ。

―――衛宮士郎の夢、正義の味方になること。
それは、己の幸福を省みず、ただ誰かのために生きてゆく。
そういうことだ。
だがそれは……人を救えても誰も幸せにはできないと。
隣人の心を幸福にすることは出来ないと……。
赤い外套の男は、そう、士郎に語りかけていたような気がする。


故に、衛宮士郎は”その夢”を諦めた。
目の前の泣いている『この子』を助けたい。
『この子』を守りたい。
『この子』の事が―――好きだから。幸せにしたいから。
だから、ずっと一緒に歩いていこうと思った。

―――間桐桜と。

けれど………。そのために大事な約束をひとつ、破ってしまった。
その事が、笑って逝ったじいさんに申し訳なくて……。
あの時、士郎は涙を流したのだ。


―――――涙?


「…………………!」
はっと、した。

―――もしも桜が。
あの時、切嗣の墓で流した士郎の涙の意味を
この夢を諦めることに流す涙なのだと……
桜のために生きることが苦しくて流す涙なのだと。
………誤解したのだとしたら―――。

『自分の為に大切な夢を斬り捨て、好きな人が傷ついてしまった。
涙してしまった』と………。

桜は、そう思ってしまったのではないのか―――?



「さ……くら……」
胸のうちに、どうしようもない焦燥感が湧き上がる。
「………俺はやっぱり、朴念仁かもな」
「………?どうした、衛宮」
「……わるい。一成、遠坂、美綴。
俺、桜のところにいくわ」
そう言って顔を上げた士郎はなにか吹っ切れた、そんな顔をしていた。
一瞬、あっけに取られた三人だが、その表情が『ある決意』に
満ちていることが判ると顔を見合わせて笑う。
「ふふ……。ああ、行って来い」
「がんばれよ、衛宮」
「……まったく、気付くの遅すぎよ。にぶちん。
士郎はたしかに朴念仁で、自分の事も考えられない馬鹿だけど」
そう言ってにっこり笑う凛。
「誰かのことで苦しいなんて、そんな風に思う奴じゃないって
私、知ってたから。
―――いきなさい。
行って臆病な我が妹に、ちゃんと言ってやんなさい。
あなたの気持ちを」

「…………ああ!」

そういうが早く、士郎は踵を返して中庭へと走り出した。
愛する人の待つ、その場所へ。



士郎の結婚前夜編その8。
―――今の俺の夢は。