落陽



―――ザパアアアッッ!!


持てる全ての膂力を用い切嗣たちを引き上げたアーチャー。
二人の体を蝕んだ泥の侵食は酷く、満身創痍の状態だ。
特に切嗣が酷い。果たしてこの状態で助けられるだろうか。

「切嗣、切嗣、切嗣………………!」

切嗣に抱かれていたアイリスフィールは
傷ついた体を必死に動かして身の内から鞘を引き抜こうとする。

「………………っ!!
いけません、アイリスフィール!
貴方の受けた呪いと傷も、死してもおかしくない程の重症なのですよ!?」
「離しなさい、セイバーのサーヴァント!
私を誰だと思っているのですか!
私はガイアの智を身に宿し、幾多の魔術を極めた冬の聖女、
安易な自己犠牲などで救われた命を無駄にするものですか!!」
「――――――っ!」

振り返ったその瞳に宿っているのは、先程まで泣きながら取り乱していた
か弱い女のものではなかった。
ガイアの智―――まさにその深遠を身に湛えた気高き冬の聖女、そのもの。

「………では、切嗣を救えるのですか!?」
救うのです・・・・・
その為にセイバー、貴方の力も借り受けます。
まずは………………」


ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ――――――ドクン。


「―――――――――!」


一際高く鳴り響く胎動に嫌な予感を感じ、上を見上げる一同。
塔の頂上に鎮座していた黒い太陽が、先程より一回り大きくなっている。
泥の中に没していたアサシンが滅びたためか、向こう側への穴が
いよいよ大きくなったのだろう。
黒い太陽はまるで涙を流すかのように、その内から滝の如く
大量の泥を吐き出し始めた―――!


「―――っ、セイバー!」

聖杯を破壊するならばこの機を於いて他に無い。
だが、セイバーはその手に握った黄金剣を睨んで動かない。

「どうしたっ」
「ぐ………破壊………出来ないのです!」
「………なに?」
「私の身体は“聖杯を手に入れる”という契約で
与えられたもの………恐らくはそれが………くっ………!」

セイバーの目は必死に聖杯を睨みつけているが、腕はその意に反して
凍りついたまま。
それは例えると令呪の様なものなのか。令呪を破るには令呪を以って
命令するしかないということらしい。
だが、命令を下すべき切嗣は意識を失っている。

「―――ちっ!」

こうなれば自分がやるしかないか。
架空座標に直接括られた聖杯の生み出す孔は、ここにあって無い物。
あれを断つには通常の破壊ブロークンファンタズムでは無理だろう。
やはり聖剣を投影するしかない。


投影、開始トレース・オン―――


―――キンッ。


左手に現れる聖剣。聖杯を睨み左手一本、聖剣を構える。
だが、構えを遮るように添えられるセイバーの左手。

「………セイバー?」
「………っ、アーチャー、止めておきなさい。
貴方の魔力では聖杯を断つほどの威力を引き出せない。
それに………」
「………………………」

セイバーの言わんとしている事が判って苦笑してしまう。
聖剣を使えばアーチャーの残存魔力は全て吸い尽くされ、
この体は消滅してしまうだろう。


―――そうなれば。
二人の顔を見ることはもう、叶わない。


「………っ、セイバー、だが………!」
「焦るなアーチャー。私に考えがある………!」
「………考え?」
「ああ、だから今はこの場を退くべきだ。
私たちには守るべき者達がいるだろう?」

アイリスと切嗣。そして………凛と桜。

「その考えは聖杯を壊すためのものなのか?」
「無論です。私たちはなんとしても聖杯を破壊しなければならない」
「………判った。君が言うのだ、そう確率の低い賭けでもないのだろう?」
「ふ………当然です。さあ、引き返しますよ」

セイバーはそう言うと倒れているアイリスと切嗣の下へ駆け寄る。
アーチャーも二人の下へ行こうかと踵を返しかけるが、泥の塔を見つめ思い止まる。
まだやり残したことがある。

「―――鎖よ」


―――ジャラララララッ!


アーチャーは左手の鎖を塔へと伸ばす。
だが伸びた鎖は流れ落ちる泥に弾かれ、塔までは届かない。

「………ちっ。
マキリ・ゾォルケン、返事をしろ! 動けるならば伸ばした鎖を掴め!」
『………………。
おぬしは大たわけか』

泥の轟音にかき消されないよう張り上げた大声に
返ってくるしわがれた声。彼はまだ生きているようだ。

『この状況において儂を救おうなどと考えておるのか?
呵々々………何処まで甘いのじゃおぬしは!』
「救う命に敵も味方もあるか!
貴様はそこにいる、ならばそれを助けるだけの話だ!」
『――――――!』
「………アーチャー、何をしている!
もう猶予は無い!」

アイリスと切嗣を抱えたセイバーがアーチャーを急かしている。
プールに流れ落ちる大量の泥は時間と共にその勢いを増し、
クレーターから溢れそうな状況だ。
泥の滝に覆われた塔の中腹に、老人の姿はもう見えない。

「………………く………………」
『たわけがっ―――往けい!
愚物共に助けられるなど儂の誇りが許さんわ!!
それにアーチャー、おぬしには救うべき役立たずがおるのじゃろうがっ!』
「――――――っ」

その応えにアーチャーは目を見開く。
まさか彼にそんな事を言われるとは思ってもみなかった。

「マキリ、ゾォルケン………」
『勘違いをするでないわ。
儂はおぬし達が滑稽でたまらんし、自らの生き方を悔いてはおらぬ。
呵々々………おぬし達が齷齪と泥から逃げ回る様を
ここから見学させてもらおうかの!』
「………………っ」

伸ばした鎖は―――伸ばした手は。
取るべき人がいなければ繋がれることは無い。
老人はその意図はどうあれ鎖を掴むことを拒んだ。
アーチャーは歯を強く噛むと、外套を翻して走り出す。

手を取り合うにはどうしても時間が必要だ。
多くの人と理解しあう為には考える時間が必要なのだ。
手は何度でも差し伸べられる。けれど、救うべき機は何度もあるものではない。
彼を救うべき機は、今しかなかった―――。

「アーチャー………」
「………………」
「………胸を張りなさい。
そんな事ではあの老人に笑われてしまう」
「………ああ」

―――その通りだ。
救えなかったものに嘆き、救えたものを誇れないのならば、
どんな道とて歩いていく資格は無い。
どれだけ迷おうとも、顔だけは下げるな。
それが救えなかった多くの者に報いる、自分に出来る唯一なのだから。



◇  ◇  ◇  ◇



「………………………」


泥は地を覆い尽くし、塔を半ばまで飲み込んでいる。
上がり始めた水位はやがて自らの身体をも覆うだろう。
その時が―――間桐臓硯の命が終わるときだ。

「………………口惜しいのぅ。
後一歩、後一歩じゃったというに」

塔の洞に腰掛け流れ落ちる大量の泥を見つめる臓硯には、
不思議と絶望のようなものは無かった。
さて、これはどういうことだろう。
あんなにも求めていた不老不死への願いを断たれたというのに。

「はて………?」

―――そういえば。
自分は何故に不老不死を求めていたのだろうか。
自らの言葉を振り返り考えてみる。

リズライヒに見せ付けたかった、それは本心だろう。
200年前、ようやく成功の兆しが見えていたこの術式は
本義の見出せない愚物共に妨害されその機を逃す事になった。
臓硯はあの時立ち会っていた宝石翁の顔が忘れられない。
争い潰しあう自分達を嘲笑い、おまえ達の願いは叶わんよと、
去っていった魔法使いの顔が忘れられない。

―――そうだ。
奴を見返すためにも、犠牲となったリズライヒに報いるためにも、
自分はどうしても■■■■を成し遂げなくてはならなかったのではないのか。

「………………?」

それが、思い出せない。
ただ思い出せるのはそれが不老不死などというものではなく、
もっと尊く、光り輝く美しいものだったという事。
その願いを老人が語ったとき、笑わない冬の聖女が微かに―――ほんの微かに。
優しい微笑を浮かべたということだけだ。

その願いは―――なんだったのだろう?


「………………ふむ」


幸い、時間はもう少しだけあるようだ。
老人は杖を突き、朽ち往く身体が飲み込まれるその時まで、
叶わなかった理想に思いを馳せることにした―――。



◇  ◇  ◇  ◇



家政夫と一緒編第四部その26。
500年の願いは潰え、掲げた黒い陽は地に落ちる。
老人はその散り際に、掲げた灯火を取り戻すことが出来たのだろうか。
全ては黒い泥の中。暗い暗い―――闇の中。