悪神



「…………万能の…………杯?」

老人の言葉を呆然と反芻するセイバー。
見開かれた紺碧の瞳は拒絶の色を浮かべて不気味な泥の塔を見る。

「馬鹿な…………!
貴方はこんなものが聖杯だとでもいうのか…………!」
「呵々々………、その通り。
この禍々しき器こそがおぬし達が求めてきたもの、
まごう事なき聖杯じゃ」

取り乱すセイバーを老人は面白そうに眺め嘲笑う。

「そんな筈は………」
「聖杯が全て清らかで、純然たる奇跡の産物だとでも思うたのか?
呵々々………青い青い!!
魔術は所詮魔術。奇跡に手を伸ばす人の業に過ぎん。
ああ、確かに天の杯は人の願いを叶える事が出来よう」
「――――――!」
「これだけの魔力があれば―――そうさな。
確かに死者の復元も、時の流れを遡ることも出来るじゃろう。
だがの。それにはそれを成す“方法”が要る。
肉を切るのに包丁が必要なのと同じようにの」
「……方……法?」

物を知らぬ幼子に語りかけるように、老人はゆっくりと言葉を紡ぐ。
その語り口はまるで怪談の紡ぎ手のようであり、
落ちに用意された仕掛けを愉しんで話す語り手のようだ。

「お主の願いが何なのか儂は知らぬ。
だがのぅ、例えば死者の魂を呼び戻す願いがあったとしよう。
しかし―――失われた魂を再構築するなど、どのようにして行う?
如何な魔力が蓄えられていようと、その力をどのように振るうのじゃ?
………つまりじゃ、聖杯は“魔術”で出来ぬ事は叶えられない」
「………な。それでは………」

目を見開き、奥歯を噛むセイバー。

それはつまり―――魔法でも無ければ。
それに類する奇跡が行われなければ、願いは叶わないということではないか。

「左様! おぬしは聖杯戦争という題目に騙され、
戦わされていたというわけじゃ!!」
「………っ!」
「ここにある奇跡はただ“一つ”だけ。
元より儂らの願いを叶える為に作ったシステムじゃ。
お主らも、そして願いに惹かれて集まる愚かな魔術師共も、
呈よく利用されているだけの大たわけに過ぎぬわ!!」

屈辱に表情を歪ませるセイバーを愉しそうに嘲哂う老翁。
その表情は醜く歪み、真実を伝えることで生まれる苦痛を啜り、愉悦に浸っていた。


「―――黙れ」


それに耐えかね低く言葉を発するアーチャー。
奥歯を強く噛み、老人を睨みつける。

「弓兵か。お主は聖杯について随分調べておったようじゃのう」

セイバーの手を取り背を叩いてやると、
アーチャーは子供達を守り岩棚へと歩み寄っていく。

「冬木の聖杯―――円冠回廊“天の杯ヘブンズフィール”。
サーヴァントの魂を蒐集し、その輝きを以って
“向こう側”との穴を繋げる大術式。そうだな、ご老体」
「……ほう、よく調べておるの。
その通り。これはお主ら英霊の高密度の魂を以って
“根源”へたどり着こうとするシステムであった」
「……で、あった?」

老人の物言いに不審なものを感じて眉を潜めるアーチャー。

「―――左様。
前回の戦いの折、どうやら余計なものが“交じった”らしくての。
流石の儂も気取った時には少々焦ったわい。
そ奴の存在は儀式成就には邪魔なものであった。
なにしろ――――――」

老人は振り向いて泥の塔を仰ぐ。

「こ奴―――アンリマユは、願望機としての聖杯を乗っ取り、
ただ一つの願いを叶えるべく生れ落ちようとしておったからの」
「アンリマユ…………?」

確か、拝火ゾロアスター教に於ける
善神アフラ・マズダと九千年に渡り戦い続けるという、
“この世全ての悪”を体現した神の名だったはず。

「馬鹿な、神霊クラスの存在が人の魔術で顕現出来るはずが無い」
「そうさな……確かにその筈だったのじゃろうが……。
ともかく、アンリマユ、もしくはそれと同質の存在が
前回の戦いで呼び出された事は事実。
だが彼奴めはその戦いで敗北し―――聖杯に取り込まれたのじゃ」
「………………」

神という概念が敗北したという事柄自体、それに近いものがどれ程の
力を持っているかをよく知るアーチャーにとって信じられない
出来事であったが、結果があるならばありえたのだろう。
ともかく話を聞くことにする。

「さて、聖杯とは持ち主の“願い”を叶える万能の釜じゃ。
冬木の聖杯も擬似的とはいえその能力を持っておる。
そこに、“この世全ての悪”たれと定義付けられた存在が吸収された。
その“願い”を以って生み出された存在が吸収された。
……さて、どうなると思う弓兵?」
「…………!
…………ま、さか」


“この世全ての悪業を叶えよ”と―――。
その願いを、無限に近い魔力を回す聖杯が受理したのだとしたら。


「そのまさかよ。
不恰好な泥の塔はこやつの胎盤。
あろう事か冬木の聖杯は生あるもの全てを滅ぼす―――最悪。
この世全ての悪アンリマユ”を生むための装置に変わってしまったのじゃ……!」


―――冬木の聖杯は万能の器では無い。それは事実だ。
だが、ここに溜め込まれた膨大な魔力は、それを成す方法が存在すれば
どんな願いでも叶える事が出来る。
もし、冬木の聖杯がそのような存在を顕現させる力を
持っているのならば。
それはまさに、ありとあらゆる不善、
“この世の全ての悪”を生み出すことになる―――。


あまりの事実に目を見開き、老人に魅入られるアーチャー。
誰もが凍りついたように止まった、その刹那。

「―――アーチャー!」
「――――――!」
「きゃっ」「わわっ!」


―――ゴキン!!


「ギ――――――ギイイイイイィッ!!」

強い力で突き飛ばされ、子供達を抱えて地面を転がるアーチャー。
同時に猛烈な突風が渦巻き、強烈な打撃音が響く。
身を起こし、慌てて振り向いたそこには、
右腕を押さえ苦しむアサシンと、彼を睨みつけるセイバーの姿。
セイバーの手には触れれば岩をも切断する
強力な風の魔術が握られていた。

「…………使えぬのう、アサシン。
これ以上の失態は許さんとあれほど言ったじゃろうに」
「ギ――――――」

岩棚の上から失望の声を浴びせる老人。
その叱責に白い面の男は項垂れる。

老人の話は気配遮断を用いて近づくアサシンから
注意を逸らす為の隠れ蓑だったのだろう。
セイバーがいなければ心臓を潰され終わっていた。

「アサシン………逃れていたのか。セイバー、君はこの事を?」
「はい。屋敷の残骸の中に彼の姿は無かった。
マキリ・ゾォルゲン、令呪を使ったな?」
「呵々々…………聡いのぅ。
お陰で無駄遣いが進んで儂の預金もあと僅かじゃ。アサシン、戻るが良い」

そう言って岩棚の奥へ身を翻す老人。
傷ついた右腕を押さえたアサシンは岩棚を高速で駆け登っていく。

「―――逃がすか」

子供達を地面に降ろすと、アーチャーは左手に長弓を投影し銀光を撃ち放つ。
だが、高速移動を行うアサシンは雨と降り注ぐ矢の乱射をかわし、岩棚を登りきる。

「ちっ………」

痛む右腕を忌々しげに見つめる。
この腕ではまともな狙いは付けられない。

「あーちゃー……」
「凛、桜を連れてあそこの……洞に隠れるんだ」
「うん」
「絶対に顔を出すんじゃ無いぞ。必ず迎えにいくから、
それまでは回路を閉じておとなしく隠れているんだ。いいな?」
「う、うん。
……あーちゃーも、がんばって!」
「あーちゃーさん……」
「心配するな。目標は目の前だ。
さっさと片付けて家に帰るぞ」
「うん!」「はい!」

二人が岩の洞までたどり着いたのを見届けると、
岩棚に向かって踵を返す。
そうして、並び立つ二人の英雄。


―――ザッ。


「……セイバー、前衛を頼めるか?」
「判りました。
私を謀った罪、あの老人に償ってもらう」

静かな怒りを湛えて笑うセイバー。
思わず息を呑む。ああ、今のセイバーならば十分な働きをしてくれるだろう。

「行くぞ―――最後の戦いだ」
「―――はい」

傷ついた英雄達はその眼光に決意を秘め、狂った聖杯を睨みつける。

ついに姿を見せた最後の敵。
冬木の未来をかけて、英雄達は最後の戦いへと挑む。



家政夫と一緒編第四部その16。
聖杯の内に受胎し、悪意の念を放つ何か。
中にいる存在が何であれ、その事実は間違いなくこの冬木を滅ぼす。
ならばやることは一つ。
大聖杯を破壊する―――それだけだ。