聖人の槍


◇  ◇  ◇  ◇

―――精神医学の世界に“自己像幻視”という言葉がある。
所謂ドッペルゲンガー。肉体感覚が剥離し、もう一人の自分が見えるという現象だ。
この症状の共通点として、現れた自身の姿が例え違う服を着ていようとも、
違う髪形であろうとも、過去の自分の姿であろうとも。
それが自分自身であるという事を直感的に“信じて疑わなくなる”特徴がある。
肉を持たず、実在しない幻覚を自分自身であると
認識するメカニズムとはなんなのであろうか。

脳は対象を“観測”することによりその存在を認識する。
量子論的なものの言い方をすれば、人間が特定の存在を定義するのは
そこに在ると“観測”する行為そのもの。
存在し得ない自己幻視であろうとも、そこに在ると“観測”したのならば、
脳はドッペルゲンガーを実在する像として認識し、その気配を明確に捉える。
他者には見えない“脳内の実像”。
それが自己像幻視と呼ばれる現象である。



さて、ここに一つの魔術がある。
霧を媒介にして対象の脳に侵入し、一つの現象を組み上げる魔術。
恐れ、不信、こうなるのではないかという予想。
魔術は脳に働きかけ、そういった僅かな認識を強制的に確定させる。
時にランダムに、時に―――術者の意図的に。
観測された認識は、実際にはそこに存在しないものを“在る”ものとして
対象者の中に植えつける。認識によって自身の体を傷つけるほどに。


―――魔術礼装“霧幻鏡界オートスコピー”。
遙か昔、吸血種の寝床として在ったこの土地には
彼らの能力を最大限に活かす特殊な魔術がかけられていた。
この魔術礼装は、地脈を通る膨大な太源マナを吸い上げることにより
人の器では起動できない彼らの超抜能力を擬似的に再現し、
操者である時臣の意を以って霧の影響下にいる人間の認識を操る。

魔術師のとっての城というものは防御の為のものではない。
むしろ攻撃の為のもの。やってくる外敵を確実に処刑するためのもの。
その例に漏れず遠坂の城もまた敵を食い殺す攻性結界であり、
不信と幻覚の中で敵を自滅させる処刑場なのである。




「さあ、仕舞いにしようか。魔術師殺し」

ごうごうと燃える遠坂邸の屋根に立つ、赤いコートの遠坂時臣。
ありとあらゆる炎を防ぐ強力な魔術礼装デシャスの火避け呪いに守られながら、
背負ったスポーツバックを屋根に降ろし、ジッパーを引き下ろす。
そこには―――華美な装飾の施された白銀の槍が一つ。

「娘達を守るために手に入れたのだ。
我が信仰認めてくださるのならば―――外してくれるな、聖ゲオルギウス」


道具のスペシャリスト遠坂時臣が聖杯戦争に備えるためその半生をかけた研究。
それは“聖人の槍”の発掘と解析であった。

全ての聖遺物の管理を謳う聖堂教会、第八秘蹟会の中でも、
特に狂信的な一派による厳しい妨害と追撃の中で得られた研究成果は、
組成の解析6割、限定能力の開放真言の発見という結果のみであり、
言ってしまえば惨敗であった。

しかし、その数値は宝物研究者に言わせれば全く以って非凡なものであり、
むしろ天才的な偉業と讃えられる成果である。
本来長い時間をかけて行われるべき宝物アーティファクト解析。
解析、順応、使用、開放。宝物に記録された全ての術式を操れるようになるまで
通常数年、難しいものなら百年以上の歳月を要し、
神造宝具ともなると起動自体に特別な遺伝が必要だという。
解析という分野だけではあるが、それを数年で半分以上成し遂げた遠坂時臣は
稀有な才能を持つ魔術師と言えた。

だが、確証を以って使えないのならば意味が無い。
現状では使うだけで危険なただの槍である。
それでも、戦術的に考えればこの武器以上に頼れるものは時臣の手の内には無い。
遠坂の魔術は“変換”。道具、特に防御・変換礼装に関する扱いは
超一流ではあるが、遠距離射撃や精密攻撃に重点を置いた
魔術の使い方は到底出来ない。
銃撃を以ってすればサーヴァントとすら渡り合う衛宮切嗣を倒すためには、
こちらも相応の武器を用意しなければならなかった。

それ故に取った魔術の槍。完全開放とは行かないが、
この槍が持つ“ひとつ”の能力さえ発揮できればそれで十分だ。



魔力装填、目標確定。構成術式解明分まで接続完了。
―――詠唱スタート。



竜殺しの殉教聖人ゲオルギウス。
かの聖人について記された『黄金伝説』にはこうある。

“ゲオルギウスは十字を切ると、竜に向かって力の限り槍を投げ、神に委ねた。
すると、槍は竜に命中し、竜は大地に崩れ落ちた”。

ゲオルギウスの槍とはつまり、祈りを以って投げれば
目標を外すことなく、竜種ですら一撃の下に葬り去る竜殺しの槍である。

竜種を一撃で倒すその威力を推し量ることなど到底出来ないが、
今重要なのは目標を外さないという能力、その一点。
宝具は化け物じみた身体能力を持つサーヴァントを打倒しうるもの。
因果を曲げうる超絶の力を備えていなければ、宝具とは呼ばれない。
ならば、ゲオルギウスにもあるのだ。敵を外さない“必殺の一撃”が。


目下の林を幻覚と戦いながら走り回る衛宮切嗣。
長く遊ばせ、疲労も頃合だろう。
目標を見据え、ゲオルギウスを構える時臣の体は
弓のように引き絞られていく。


「鬼道に落ちた下種な輩よ―――」


槍を握る腕が遠坂時臣の“何か”を吸い上げていく。
魔力だけではなく、まるで生命エネルギーすら
吸い取られていくかのような錯覚。解析が不完全ゆえの
フィードバックなのか、それとも殉教聖人が扱う槍ゆえの
副作用なのか、それは実験不足の為わからない。
唯一つ判っていることは、これを使うことによって
なにか大切なモノを失われるであろう事。

だが、それでもかまわない。
ふら付く足を懸命に踏ん張りながら精緻な魔術式を制御し、
目標を睨みつける。

娘達を必ず守る。
それは愛する人に過酷な責務を負わせてしまった自分に出来る、唯一の贖罪。
人として幸せになる為のものを与えてやれなかった自分が示せる、唯一の愛情。
だから、“誰かに任せて”のうのうとしてはいられないのだ。
これは、時臣がやるべき事だった。


「受けて滅せよ―――“輝く四翼ゲオルギウス”―――!


―――ギュオンッ!!!


白銀の槍は十字の翼を広げ、光の粒子と共に魔術師の手から放たれる。
落ち葉を飛ばしホーミングするように地面の上を滑空すると、
霧を切り裂き敵の下へと飛んでゆく。
対する衛宮切嗣は強い魔力反応に気付いたらしく、
槍に向かって発砲するが―――もう遅い。


ザシュッ―――ボゴアッ!!!


白銀の槍は魔術師殺しを貫き、その体ごと木に突き刺さった。



家政夫と一緒編第三部その44。
マスターとして参加するはずだった聖杯戦争。
英霊を呼び出すために手に入れたそれは自らの落ち度の為、
本来の目的で使われることはなくなってしまった。
それでも、大切な人を守る為に使うのならば、意味はある。
決意を秘めた魔術師の一撃が、灰色の体に突き刺さる―――。