赤い糸


「――――――っ………ぶはっ…………!!!」

ゴボッゴボボボッ!


意識の深遠から戻ってきたアーチャーは、
肺を犯しにかかる海水の味に咽こんだ。

「あ――――――はあっ……はあっ……こ、ここは………」

東の空に登るかすかな日差しが景色を照らし出し、自らの居場所を教えてくれる。
船着場―――川岸に広がるリバーサイドパーク、遊覧船乗り場だ。
体に巻きつくロープは遊覧船繋留用のもので、どうやらこれに引っかかったおかげで
沖まで流されずに済んだらしい。自分にしては随分と幸運だった。

「ぐ、………がは………っ………く………」

力を振り絞り岸壁までたどり着くと、
手甲と脚甲の内側に仕込んであるステークを引き抜き、
壁の隙間に打ち付ける。
打ち付けては引き抜き、手と足を使い上へ。
ロッククライミングの要領で岸壁を登っていく。

「は……あっ……」

岸壁の上に這い上がると同時に力尽き、仰向けになって倒れる。
朝の冷たい空気を胸いっぱいに吸い、意識を覚醒させると
全身に痛みが蘇ってくる。それこそ全身に、だ。

「………は、はは……よくもまあ……生きていたものだ」

軽く身体状況のチェックをする。
全身、受けた傷口や開いた傷口余すところなくある。
聖剣によって傷つけられた傷跡―――
対特効のせいで悪くはあるが、傷自体は深くない。
ふさがり難いのが問題だが注意すればそう問題は無いだろう。
目も当てられないのが右腕―――これが特に酷い。
最後の一撃によって穿たれた右肩から胸表面に走る惨い傷。
スナイピングに気がついていなければそれで終わっていた。

それよりも問題は残存魔力である。
仮死状態とはいえ水中に半日近くいたためか相当の失血で、
状態保持の為かなり消耗している。
恐らくは一般魔術師における五割程度の魔力しか残っていまい。
傷の治癒どころか消滅を免れるので精一杯である。

「ぐ………く………」

傷口を押さえ、ふらつく体のまま近くの茂みに倒れこむ。
目立つ赤い外套は脱いでしまい、それを使って応急処置を行う。
人の居ない間を見計らい、確保した水道水で傷口を洗浄すると
縫合が可能なサイズの傷口を緊急用医療針と聖骸布をばらした糸で縫いつけ、
余った聖骸布を包帯代わりにして傷口を固定する。
一級の防御概念武装である。ダメージに対する保護にも秀でていた。
とはいえ、右腕損傷の応急処置は持ち合わせのキットでは手に余る。

「くそ………休息を入れたら病院にでも忍び込むか………?」

なんにしろ単独行動中である。スキル持ちであるアーチャーとしたところで
休息をいれずに動き続ける事は魔力の無駄遣いのみならず自殺行為だ。
背中を木に預け魔力の外部漏れ遮断を行うと、
アーチャーはしばしの休息を入れることにした。




―――そうして、夕方。
雨上がりの空は快晴そのもので、朝方と同じく美しい茜日がアーチャーのいる
木陰を照らし出す。
遠くで聞こえる子供たちの元気な遊び声。
冬が近いとは言えその陽気はまるで夏の夕暮れのようで、穏やかな
日差しと共に吹くやわらかい風が、起き抜けの頬をくすぐった。

「―――夕方か」

首を回し体の凝りを解す。
縫合した傷口の具合はそう悪くないが、
案の定右腕は悪いまま、断続的な痛みを訴えてきている。
悪い状況は変わらない。
―――だが、それ故に違和感一つ。

「―――魔力が……回復している?」

体内魔力が休む前より大きく回復していた。

サーヴァントは自身の魔術回路により多少の魔力生産を可能とする。
だが残存魔力に比例してその回復量が決まるため、
魔力が枯渇しかけている今のアーチャーには自身の回路からの
魔力生産はほぼ望めない。

「――――――?」

魔力供給ラインの成立には、サーヴァント自身がマスターの魔力が届く
距離にいることが不可欠で、遠く離れてしまえばその恩恵を預かる事は出来ない。
偵察や長距離狙撃といったマスターから離れて行動する任務が多い
アーチャーのサーヴァントはそれ故に“単独行動”のクラススキルを持つのだが
それは魔力断絶状態での無駄なロストを遮断するスキルであり、
補充効率を上げるためのものではない。

―――微弱だが回復した魔力。
それはマスターとサーヴァントが、魔力の通じ合う距離まで接近し、
供給ラインが再接続された証。
だとすると――――――


ボムンッ。


「――――――む」

突如、視界に飛び込んできたのはサッカーボール。
無意識に打ち落としたそれは正面の植え込みに当たり、膝の上に落ちた。

「―――――――――!?」

パークでサッカーに興じる少年がミスキックか何かで
こちらに蹴りこんだのだろう。
間違いなく回収しに来る。そんな事になればこの風体だ、
騒ぎになりかねない。

今目立つのはとても拙い。
こんなコンディションで敵のサーヴァントに見つかれば敗北は必死。
蹴り返すわけにも行かず、さりとて持っているわけにもいかない。
これは逃げるしかないと判断したアーチャーはボールを地面に置き
腰を上げ―――。


「―――あ。あれ〜?
おじさん、おじさんじゃないか!」


―――たところで、植え込みの向こうから声をかけられた。
観念し、振り返るアーチャーの目に映るのは冬木デパートで出会った
赤毛の少年。

「君は―――」
「うっわーきぐうだなー。
なにそれ、コスプレか?」
「―――どこで覚えたのかね、その単語を………」
「それともあたらしいしょうぼうふくとか?
―――って………もしかして、おじさんそれ………」
「……………」
「け、けがしてっ―――ぶっ」

血が滲み出し汚れた聖骸布を見て慌てだす少年。
アーチャーの左手は神速の速さで少年の体を捕獲し
茂みに引きずり込む。

「ぷわっ、な、なにすんだよおじさんっ!」
「………手荒な事はしたくないのでな、少年。
おとなしくして欲しい」
「―――え、ちょっ、おじさんめがこわいよ?」
「一つ約束してくれ。そうすれば離す。
………私がここに隠れている事を誰にも言わないで欲しい」
「―――へ?」
「私は今、命を懸けたかくれんぼ中でな。
鬼に見つかれば消されてしまう運命なのだよ」
「え、ええ………っ!お、おじさんなにものなのさ!?」
「秘密にすると誓えるならば教えてやっても良かろう。
―――どうだ、誓えるか?」
「ち、ちかうっ!
ちかうよっ!ぜったいだれにもいわない!」
「―――良し。
ではまず君の友人たちにボールを持って行き、自然に振舞うんだ」
「う、うん」
「そして解散になったら戻って来い。
そうしたら私の秘密を教えてやろう。くれぐれも誰にもいわないように」
「わ、わかったっ!ちょっとまってて!」

目をきらきらと輝かせながら茂みの外へ出て行く少年。
この年頃の男の子は巨大な陰謀、未知への興味に津々なのだ。
実に御しやすい。
少年が仲間の下へ走っていくのを確認すると
痛む体を庇いながら、近くにある公衆便所の個室の中に隠れる。
悲しみと怒りに歪む少年の顔が目に浮かぶが、彼のためである。
心は痛むが涙を呑んでもらうしかない。

『許せよ―――少年』

蓋をした便座に座り、少年たちの声に耳を傾ける。

『じゃあなー』
『またあしたなー』
『ばいびー』

………………………。


「―――去ったか」


―――――――――。


…………バタバタバタバタ!ドンドンドン!



「おじさんっ!!!」
「―――なっ!」
「ひどいじゃないかっ!ちゃんとしげみのとこにいてよっ!
やくそくだろっ!」
「―――馬鹿な」

何故この位置が―――?
そしてアーチャーはようやく気付く。
聖骸布の解れ糸が床をたどり、ドアの向こうに伸びている事に。

「かたにまいてるぬののほつれいと、しげみのえだに
ひっかかって、ぽろぽろきれながらここまでつづいてたんだよっ!」
「―――ありえん」

信じられない己の不運と、そんな事にも気がつかない注意力の低下に
ショックのアーチャー。思わず天を仰ぐ。
そこには………
得意げな少年の顔がドアの上から覗いていた。


「―――ふぃーっしゅ!」
「――――――くそ」



家政夫と一緒編第二部その37。
聖人の赤い糸。
運命の糸は繋ぐ。
己でさえ知らぬいくつかの運命を。

自分を追う、3人の幼子は彼になにを与えるのか。