概念の化物:前編


カチコチカチコチ…………。


廊下にすえられた柱時計の針が23時をさしている。
膝の上には毛布に包まり眠る桜の体。本来ならばベッドの上で夢の中だろう。
凛は扉を封印し、二人の部屋を占拠している。
魔術錠を解かない限り部屋を共にしている桜は寝ることが出来ない。
アーチャーは溜息ひとつ、膝の上の可哀想な姫君をひとなですると
改めて時計に目を走らせた。

23時。
いつもならば“出ている”時間だ。



―――――追跡中のサーヴァントの動向が知れなくなるのは
今後の情勢においても圧倒的に不利。
決定的なイニシアティブを失いかねない。
ただでさえ昨晩、こちらから攻撃を仕掛けている。
オマエのクラスはなんだ?剣士セイバーか?槍兵ランサーか?狂戦士バーサーカーか?
―――弓兵アーチャーだろう?
後手に回り勝利することはありえない。
偵察、情報収集、情報操作。機先を征し、先手必勝。
それこそがオマエの―――――。


「……………ッ」

頭の中で鳴る危険信号アラート、それを力ずくで押さえ込む。
そんなことは判っている。
この体はアーチャー以外のクラスにはなれない、弱い体だ。
英霊として存在するものの中でも低位の魂だ。
戦略、戦術、あらゆる武装。それらを駆使しようとも
いざセイバーやランサーといった正純の戦士と
真っ向から打ち合おうモノならば………。
敗北は必至だ。それだけは覆せない。
故にあの日、戦いを覚悟した日から数日、
情報収集に徹し必殺の機を窺っていたのだ。

昨晩の山中。あれほどの好機はなかった。
調査し、足取りを追い、情報を流し、相打たせ。
ようやく実った穂を刈り取るために待ち伏せ、
双方を狙った必殺の一撃は―――――
見事に外れた。外れてしまった。

得られたものはゼロではないが、こちらの情報が相手に知れてしまった以上
むしろマイナスのほうが大きいだろう。
立ち止まっている場合ではない。

―――そんなことは判っているのだ。



「………何故………なんだろうな」

成すべきことは明確だ。
やらなければいけないことの“優先順位”は決まりきっている。
人の命より優先されるものなどない。
二人の命よりも優先されるものなどない。
ならば。
子供たちの心が多少傷ついても、その命を守る選択肢のほうが重要だろう。
それなのに。何故オマエは―――ここにいる?

「……………くそ……………」

この一年、ここまで強い迷いに苛まれることはなかった。
そんな判断に心を割く必要などなかったからだ。

一度踏み入った迷いの連鎖はとどまることを知らず、
子供たちとの暮らしの中で心の奥底に沈んでいた願いをも引き上げていく。
それは沈んでいても片時も忘れたことはない。
戦いへのパスポート。心にある、切り離せない未練。
そう―――――。

―――自己の消滅。衛宮士郎の―――。

『………忘れろ』

今は、必要ない。
すべてが終わってからでいい。この戦いは絶対に勝たなければならない。
勝利することはすなわち、子供たちを最後まで守ること。
ならばその後でもいい。それまでに立っていれば、後は容易い事だ。
………それに。
今のアーチャーにとって、子供たちの笑顔を失うことは何よりも――――


『……………む?
………なに……よりも?』


ふと覚えた、自らの思考に対する違和感。
それは優先順位の、変化。
自分にとって何が必要だったのか。
本当に守らなければならないものは、なんだったのか。

最後に掴んだそれは、なんだか暖かくて。心地が良くて。
混濁した思考がクリアになっていくようで―――――



――――――ガチャ。


「――――――――――!」
突如、背中を押される感触に扉が開いたのだと知る。
慌てて振り向くとそこには………。
怒った凛の顔が見えた。



家政夫と一緒編第二部その15。
―――概念の化物。
それは、魔術師がたどり着くなれの果て。
思考の方向性が変わらぬ、ただその為だけに在る“モノ”の事を
魔術師達は“概念の化物”、と呼称する。

ここにひとつの魂がある。
ただ人の救済を求め、生きてきたモノ。
彼はその短い生涯を悩み、苦しみ、失意とともに歩んだ。
その望みは、叶うハズがないものだったからだ。
そうして死した後も、彼は失意と共に在り続けた―――。