恐れ


「………ごちそうさま」
テーブルにフォークを置くと、凛は椅子から飛び降りる。
皿の上にはハムエッグとサラダが半分残っていた。
「………凛?
どうした、体調でも悪いのか?」
アーチャーは怪訝な顔で凛を見る。
朝はどちらかというと少食の遠坂凛だが、今朝はそれに輪をかけて食べていない。
彼女はかけられた声に肩をびくりと震わすと恐る恐る振り返り、
「………なんでもない」
そう呟いて居間から出て行ってしまった。


「………………………」
なんとなく凛の後を追うことが出来ず、アーチャーは浮かせた腰を椅子におろす。
「………あーちゃーさん?」
二人の様子がおかしいことを悟ったのか、食べていたトーストを皿におくと
物問いたげな視線でこちらをみつめてくる桜。
「ふむ………」
アーチャーは考える。
一昨日、玄関先で脛を切り上げられた件。それが尾を引いているのならば
今回のこの態度にもある程度納得がいく。
しかし―――。
前回のものと今回のもの、性質が違う。
前回は怒り。今回は………恐れ。


『恐れ、か―――――』
アーチャーの記憶の中にある、幾多の呪いの視線が瞼の奥に浮かぶ。

恨み、憎しみ、怒り、蔑み。

戦い、守り、傷つき。その果てに向けられてきた視線の多くは
悪感情―――アーチャーを呪う類のものだった。
そうした幾多の感情の中でも、とりわけ彼を打ちのめしたものがある。

―――子供から向けられる、恐怖の視線。

怒りや蔑みはまだ、アーチャーという存在を同じモノとして見て向けられる感情だ。
だが、恐れは―――その感情は。
この体が、心が。
人の届かぬ、人の思いの届かぬどこか遠い存在になってしまっているのを
決定つけるようで。
自分がやっていることが果たして―――――何のためにあったのか。
度々、判らなくさせた。

人を救う為に剣を取った。
だがアーチャーを見つめる幼子の側に在るのは、モノと化した親の骸。

この剣は、誰のために振るわれる?
守ることが出来ず、切り捨てるしかなかった命。
幼子を守るために必死になって振るったこの力は―――。
結果、その心に深い傷を作った。

凛がその瞳に浮かべていたのは、そうした『恐れ』。
得体の知れない存在に対して幼子が抱いた恐怖の感情。
その写しだった。



「……………ふ」
アーチャーは自嘲を含め笑う。
ならばなおのこと。守らねばならない人だからこそ、向かい合わねばなるまい。
そこから逃げ出すような人間が何を持って最強を名乗るというのか。
「桜」
「はい?」
「行って来る」
「………はい!」
席を立つアーチャーにいってらっしゃいと手を振る桜。
背中にエールを受けて意気揚々と歩き出すアーチャー。


………が。
「魔術の施錠とは……こら凛開けたまえ!」
待っていたのは天岩戸。
凛と桜、二人の部屋のドアは凛の魔術によって閉じられていた。
力技でぶち破るわけにもいかず、ノックをしながら呼びかけるアーチャーだが
主の返事はない。
「………やれやれ。こうなれば持久戦だな」
ドアを背にして腰を下ろすアーチャー。
狙撃手は耐えるもの。幸い時間はある。

まあ厳密に言えば射手と狙撃手は違うものだがこの際それはどうでもいい。
アーチャーは腕を組み、小さな主人が音を上げるのを待つことにした。



家政夫と一緒編第二部その14。
必死になって守っても。
守った人に傷つけられ、守った人に罵られ。
守った子供に恐れられ―――。
それでも、怖くないよ、と浮かべた笑顔は
相手の恐れを大きくするだけ。

人は自分の世界の中でしか
モノの尺度を計れない。
だから時間が必要だ。
お互いを理解して、自分を守ってくれたのだと、理解する時間。
大事な人なのだと認識する時間。

彼には、それがなかった。

両手をいっぱいに広げて
得た広い盾をかざしても、守れる範囲には限度があるから。
ずっとずっと走り回らなくちゃ。
一人でも多くの、笑顔を守るために。

戦場を走る哀れな道化。
傷ついた心を隠し、必死になって笑顔を浮かべ
他人の幸せを守ろうと、“概念”だけを追いかけて。
大事なものをおいてきぼり。

いつしか道化は“概念”そのものになってしまった―――。