異変考察



眉を寄せてライダーを睨む桜。
出来て当たり前のことを尋ねられた時のように、桜は怒っている。
士郎の額にも汗の筋一つ。
桜の身に起きている異常を肌に感じたらしい。

「ライダー、これは……?」
「“否認”……」
「否認……?」

形としては違うが、桜が見せているのは、とある症候群の症状に近い。

「……サクラ、ありがとうございました。
勉強の内容を今一度確認しておきたかったのです」
「………ねぇ、それ本当に?」
「…………え?」

これ以上刺激するのは良くないと会話を打ち切ろうとしたライダーだったが、
唐突に変わった桜の声色に顔を上げる。
見つめる桜の顔は、何処か不安げに歪んでいて。
聖杯戦争の頃の彼女を思い出させるもので―――。

「……今日のライダー……どうして……」
「…………サクラ?」
「……っ、知らないっ!」
「あっ、サクラっ!」

立ち上がる桜の手を慌てて取ろうとするライダーだが、
伸ばした手は払われてしまう。

「……っ」
「あっ………。
わ……私、許してないんだから……っ」

振り向いた桜の顔が、とても深い悲しみと怒りに彩られていて。
居間から出て行く桜の背を、ライダーは呆然と見送る。

「……このままじゃ良くないな。
ライダー、ここで待っててくれ。桜を連れ戻してくる」

出て行った桜を追うように立ち上がる士郎。
呆然としていたライダーは縋るような目で士郎をみつめる。

「わ、私は……」
「何がおきてるのか、俺にはわからないけれど……。
ライダー、俺はお前を信じてる」
「……士郎」
「桜を、助けてくれ」

そう言って居間から出て行く士郎。
その言葉は……とても力強くて。
失意に落ち込みかけていたライダーの心は、ギリギリのところで踏みとどまる。

『……そうだ。
私が、桜を守らなければ』

落ち込んでいる場合じゃない。
今の自分では桜を連れ戻せない。ならば、自分にやれる事……
彼女を救うための手立てを、考えなければ。




とりあえず落ち着くためにテーブルに出されていたポットを使いお茶を淹れる。
深呼吸一つお茶を啜る。たちまちニュートラルに戻っていく心。
よし、ここからだ。

『桜の身に何が起きているのか…………』

まずは状況の再認から始めよう。
明らかに自分のものではない知識を身に着けたというのに、
桜は自身の変調について疑問にも思っていないようだった。
そういった自身の変調に関して留意しなくなる症例が
神経学に存在する。

『……病態失認』

脳卒中などの脳損傷により左半身不随になってしまった
患者の一部に見られる、
自身の身体不全を失認、“否認する”という症例である。



―――病態失認の症例は実に特徴的だ。
例えば、脳卒中などにより左半身が完全に麻痺した患者Aがいるとする。

患者Aの左腕は誰から見ても動かない。
けれど、Aは自分の腕が“動く”という。
自身の健常を訴えるAに対し、医師が左腕の必要な作業を命じると、
Aはそれを当然のように行おうとする。
茶碗を左腕で持とうとするし、靴紐を結ぼうとする。

無論出来るわけが無い。当然のように失敗する。
だがAはそれを否認する。
『馬鹿を言わないでください。
茶碗だって持てているし、紐だって結べています』と―――。


この疾患が起こる背景は、右脳の持つ基本能力に関連があるといわれている。
脳は右脳と左脳、二つの領域に分かれており、それぞれが逆半身の機能を
統御している、という知識は広く知られているが、
それぞれが持つ役割に関してはそう知られていない。

特に感覚入力の矛盾や、信念の矛盾と言った様式の違いは顕著であり、
左脳は矛盾に対し“取り繕う”という対処法を取り、
矛盾などは存在しないというふりをして異常を放置しようとするが、
右脳はこの逆で、矛盾に対しての意味付け、ニュアンスなど
視覚から得られる情報の“判断”を行い解決しようとする。
この為、右脳は『異常検出器』とも呼ばれる。

右脳が持つこの機能が損なわれると、患者は自分の窮状に対して
全く気にかけなくなることが多く、多幸症のような傾向すら表す。
それどころか、現在の認識を正当化するためにあからさまな作話を
行ったりもする。茶碗も持てているし、紐も結べている、と。
“病態失認”は左半身麻痺の患者にしか見られない特有の症例であり、
右脳の研究に関して多くの情報をもたらした症例である。



桜のケースの場合、病態失認のように何かを失ったわけではなく、
視覚的に見ても明らかな異常ではないので、この症例に当てはめるのは
問題があるが、両症例には共通点が存在する。
“自身の異常に対する無関心”と“作話”である。

先ほど桜は、あれだけの知識を以前から使えるものだと言い、
その知識を“復習”であると言った。
得た知識を、これまで行ってきた勉強の内で手に入れたものだ、と
状況の補完を行ったのだ。
これは右脳が行う、経験による正しい推測や情報判断に対し、
左脳の状況補完能力が優勢である事を意味する。

つまり、右脳に何らかの機能障害が起きている―――と考えられる。



『……しかし』

異常の輪郭はつかめて来たが、自分に何が出来るのか、
それを考えなくてはならない。

ライダーは医者ではない。
ライダーに取れる手段はただ一つ、魔術のみ。
しかし、魔術も医術と同じく万能ではない。
起こっている問題が、

“何処に働き”
“何が”
“どんな問題を引き起こしているのか”

その概念を明確にしておく必要がある。


まずは排除すべき問題を定義しよう。
桜に起きている異常は知識の獲得。それも、魔術師の技能として
ほぼ究極に位置する『固有結界』に関する理論を語れるほどの知識である。
だが、知識自体は無害だ。ここで問題なのは得た知識ではなく、
その知識を“何の疑問も抱かずに使いこなしている”認識のほうだろう。

先ほど、桜の身には右脳機能の異常が起きているのではないかと推理した。
では、桜の体に起こっている認識異常は
“右脳損傷”により引き起こされたものなのだろうか?

『……違う』

桜の様子を見る限り、身体能力に関して不審なものは見られず、
心身共に至って健康だ。ライダーに繋がるレイラインの状況を見る限り
桜の生命に重大な危機が起きているとは考えられない。


では―――なんだ?
身体異常によって引き起こされている認識変化でなければ、
何が桜の認識を変えてしまっているのか?


『………魔術ですね。この状況で考えられるのは』

先日から続く一連の状況を鑑みると、桜には魔術的な暗示、
もしくは意識誘導が行われている可能性が高い。

『では、何の為に………?』

この暗示をかけた人間は、何の為に桜に知識を与え、認識を操るのか。

『……情報不足ですね、切り口を変えましょう。
では、何が出来るのか』

もし、桜以外の何者かが彼女の意思に干渉し、
その認識を操る事が出来るのならば。
その主観が彼女の体を使い、得た知識を悪用するために、
操ると考えても不思議は無いだろう。

―――つまり。
これは自身を危険に晒さないための、何者かの魔術実験……なのか?

『……論点がずれてきましたね』

今やるべきことは何者かの目的を洗い出す推理ではない。
情報を整理しよう。

明らかにするべき点は三つ。
何処に働き、何が、どんな問題を引き起こしているのか。
それを、今まで推理した情報に当てはめてみると―――。


『右脳領域、特に認識に関する領域に対し、
異常認識の妨害を行う魔術が、
魔術技能の向上を不審に思わせないようにしている……
というところですか』



……誰が、何ゆえに桜に魔術技能を与え、その認識を操っているのか。
それはわからない。けれど我が主に害なす以上、そいつは敵だ。
桜の心を曲げる以上、憎むべき敵だ。

『……許さない。敵は必ず殺します』

姿の見えぬ何者かの影に殺意を募らせながら、
ライダーは干渉魔術に対する策を練り始めた―――。



ライダーと一緒編-Sその11。
魔術は万能ではなく、ライダー自身も万能ではない。
それ故に、起こっている事象を明確に定義し、打てる最善手を打つ。
それがライダーの戦いだ。